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十牛図(悟りのプロセス) −第六段階:騎牛帰家(きぎゅうきか)−

こんにちは、幸村一輝です。
 
 
今日は十牛図の第六段階・騎牛帰家(きぎゅうきか)
について、お話ししたいと思います。
 
 


絵を見ると、牧人が牛にまたがり、
楽しそうに笛を吹いていますね。
 
 
これは牧人がとうとう牛を飼いならし、
旅を終え、自宅へ帰る所を絵にしています。
 
 
牛を飼いならしたという事は、
もう、牧人=自我と牛=真我は一心同体であり、
分離していません。
 
 
旅を終えたという事は、
他人や出来事に振り回されていた外側の世界から
内側の世界へ戻って来たという事です。
 
 
楽しそうに笛を吹いているという事は、
自分が本当にやるべき事を見つけ、
ワクワクしながら楽しんでいるという事です。
 
 
マズローの欲求五段階説で言えば、
承認欲求を超えて、自己実現欲求の段階に来た、
という事です。
 
 
自己実現とは、他人からどう言われようと、
どう思われようと、自分がしたいからする、
という内側から溢れる欲求です。
 
 
例えば、ある分野で世界一になるとか、
孤児院を経営するとか、新しい技術を開発するとか、
そういう使命感や情熱に基づくものです。
 
 
「夢」と言い換えてもいいかもしれません。
 
 
夢を叶える為に努力する時、
他人や周囲の出来事には構ってはいられません。
 
 
ただただ、そうしたいから、そうする。
 
 
こういう解説をしている十牛図は
あまりないかもしれませんが、
これが第六段階・騎牛帰家だと僕は解釈します。
 
 
んで。
 
 
第五段階の牧牛の記事で、自己肯定感の下りで
「そもそも肯定するべき自分などいない」
という話をしました。
 
 
人が普段、意識している「自分」という「個」、
つまり自我はただの幻想であり、
本当の自己は「全」という真我である。
 
 
みんな一つで、初めから分離などしていない、
分離していると思い込んでいるだけである。
 
 
こういうワンネス思想(?)の立場からすると、
「ありのままの私(個)でいいのだ」という自己肯定感は
存在しえない事になります。
 
 
自我がないのであれば、自己(自我)肯定など
しようがありません笑
 
 
「あ、自分なんてないんだ」
 
 
こう理解出来た時に、自己肯定感が芽生えたのです。
 
 
矛盾しているようですが、本当なのです。
 
 
自分がいない、という事が腑に落ちると
例えば、落ち込んでいても、
「落ち込んでいる自分」にOKが出せるようになります。
 
 
「ダメな自分」もOKですし、
「怒っている自分」もOKですし、
「情けない自分」もOKです
 
 
だって、存在してないんですもん笑
 
 
幻想、例えば、ゲームの中のキャラクターが
どういう状態・状況であっても、
現実の我々には痛みがありませんので、
「そうなのかー」の一言で終わります笑
 
 
「ダメな自分、そうなのかー」です笑
 
 
ポイントは「ジャッジ(判断)」をしない事。
 
 
落ち込んでいるから悪いとか、
ポジティブだから良いとか、
善悪、正誤、裏表、幸不幸、好き嫌いなどの
自分に対する判断を一切しない事なのです。
 
 
ただただ、そうである。
 
 
ありのままである。
 
 
この判断しない事を仏教では「平等知(びょうどうち)」
と言います。
 
 
これに対し、判断する事を「差別知(しゃべつち)」
と言います。
 
 
これをどちらが良いとか悪いという話ではなく、
人間として生きるにはどちらも必要です。
 
 
ただ、自己肯定感がないと悩んでいるのであれば、
平等知で自分を観察してみる事をオススメします。
 
 
次回、十牛図の第七段階・忘牛存人の
お話しをしたいと思います。
 
 
最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:十牛図, 22:31
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十牛図(悟りのプロセス) −第五段階:牧牛(ぼくぎゅう)−

こんにちは、幸村一輝です。

 

 

今日は十牛図の第五段階・牧牛(ぼくぎゅう)について
お話ししたいと思います。

 

 

      【十牛図 −第五段階・牧牛ー】

 
 
第四段階・得牛で牧人は牛を飼いならそうと
躍起になっていたのですが。
 
 
この牧牛では、牧人は牛と共に
同じ方向へ歩いています。
 
 
まだまだ、牛を飼いならしたとは言えませんし、
油断をすると牛が暴れ出し兼ねませんが。
 
 
一先ず、落ち着いた段階と言っていいと思います。
 
 
これは、牧人=自我が、牛=真我である状態を
"ある程度"コントロール出来る状態と言えます。
 
 
言い換えれば、"ある程度は"コントロールして
悟った状態をキープできるようなった、
とも言えます。
 
 
止め処なく溢れる思考、
出来事に反応してしまう感情、
そういったものが出て来ても、
すぐに平静さを取り戻せる事。
 
 
すぐに「今、ここ」に戻って来れるという事。
 
 
ここに至るには第四段階で説明した
「悟後の修行」が必要不可欠です。
 
 
思考や感情にとらわれている事に気付いて、
ニュートラルな状態へ戻していく。
 
 
これをひたすらにやり続ける。
 
 
そして、「今、ここ」のニュートラルな状態へ
いられる時間を長くしていく。
 
 
これが第五段階・牧牛です。
 
 
ここまで来ると、自分の外側には
問題がない事が分かっています。
 
 
思考と感情をニュートラルに戻す行為に、
他者や出来事は関係ありません。
 
 
つまり、ここに至っては、
他人からの承認欲求が必要なくなっているのです。
 
 
一方で、自分で自分を認めるという
自己承認はまだ出来ていません。
 
 
まだ自己肯定感が持てていないのです。
 
 
ですが、それももうすぐです。
 
 
悟後の修行を続けていると、ある時、
自己肯定感が芽生えてくるのです。
 
 
いえ、正しくは「そもそも肯定するべき自分などいない」
という真理に辿り着くのです。
 
 
僕はこれに気づいた時、自己肯定感がなんたるかを
理解する事が出来ました。
 
 
それについては、第六段階・騎牛帰家で
お話ししたいと思います。
 
 
では、最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:十牛図, 23:28
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十牛図(悟りのプロセス) −第四段階:得牛(とくぎゅう)−

こんばんは、幸村一輝です。
 
 
今日は十牛図の第四段階「得牛(とくぎゅう)」について
お話ししたいと思います。
 
       【十牛図 第四段階ー得牛ー】


第一段階「尋牛」で人生に迷い苦しみ、
第二段階「見跡」で正しい教えを見つけ、教えに従い、
第三段階「見牛」でとうとう悟りを開きました。
 
 
では、第四段階の「得牛」はどんな段階かというと、
一言で言えば「緊張状態」です。
 
 
牧人=自我が牛=真我の角に縄をかけて、引っ張っている。
ピンと張った縄が緊張を表しています。 
 
 
これは悟りを知ったハズなのに、
すぐに消えてしまった悟りを求めて
自我が「悟りたい!悟りたい!」ともがいている段階なのです。
 
 
第三段階「見牛」で垣間見た「完璧な悟り」を求めて、
人はまた彷徨うのです。
 
 
ここが悟りの一つのワナで、
「悟ったハズなのにまだ苦しいのはなぜだ!?」
と、自我が騒ぎ立てるのです。
 
 
僕もこの段階で散々苦しみました(苦笑)
 
 
そして、十牛図を知る事で
「あ、見牛はゴールじゃくプロセスだったんだ」
という事が腑に落ちて、とても安心しました。
 
 
と同時に、「あ、まだまだ辛い事が続くのね…」
という事も知って愕然とはしましたが(笑)
 
 
この第四段階で起きる事は、
自我が騒いでいる事に"気付き"、真我に還る
という事を繰り返す、という事です。
 
 
感情的にキーっとなっている時に
「ハッ、いかんいかん」と真我に還る。
 
 
思考で頭がグルグルしている時に、
「ハッ、いかんいかん」と真我に還る。
 
 
もうね、ずーっとコレです(笑)
ホントにこればっかりです(笑)
毎日毎日、毎瞬毎瞬ひたすらにこれをやり続けます(笑)
 
 
これを「悟後の修行」といって、
第四段階〜第六段階くらいまで続きます。
 
 
最初の内は「また感情的になってしまった!」とか
「また思考にとらわれてしまった」
と落ち込んだりもしますが、慣れて来ると
「ま、しょうがないか。だって人間だもの」
くらいになります(笑)
 
 
大切なのは、感情的になったり思考にとらわれた時に、
そこからどれだけ早く気付いて真我に還れるか、
という事です。
 
 
言い換えるば、修行すればする程、
思考にとらわれる時間、感情的になる時間が減ってきます。
 
 
そして、より大切なのは、感情的になったり、
思考を働かせる事が悪いわけではない、
という事です。
 
 
感情があるから喜びや楽しみ、幸せを味わう事が出来、
思考があるから新しいものを生み出すという
創造的な活動が出来るのです。
 
 
「思考も感情も使い方次第だ」という事です。
 
 
ともあれ、この「得牛」の段階においては、
思考や感情を排除しようと躍起になってしまいがちです。
 
 
それはそれで必要なプロセスかもしれませんが、
感情的になっている自分、
思考にとらわれている自分に許可を出す事、
これを覚えておいてほしいな、と思います。
 
 
次回、十牛図の第五段階「牧牛」について
お話ししたいと思います。
 
 
では、最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:十牛図, 22:47
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十牛図(悟りのプロセス) −第三段階:見牛(けんぎゅう)−

こんにちは、幸村一輝です。
 
 
今回は十牛図の第三段階「見牛」について
お話ししたいと思います。
 
        【十牛図 −第四段階「見牛」ー】


第一段階「尋牛」で人生に迷い、
第二段階「見跡」で正しい教えに導かれ、
第三段階でとうとう「答え=牛」を見つけます。
 
 
ここでいう「牛」とは「本当の自己=真我」です。
 
 
真我はワンネスとか、全体性とか、愛とか光とか
神とかサムシンググレートとか、色んな呼び方がありますが、
仏教では「空」と言い、悟りを開いた状態を指します。
 
 
そして、初めて悟りを開いた事を「見性(けんしょう)」と言います。
 
 
この「見性」に達するかどうかは、
偶然性に寄るところが大きいと感じています。
 
 
一生修行しても辿り付けないかもしれないし、
ある時、ふっとそこに辿り着いてしまうかもしれない。
 
 
もし、意識がある時、自覚している時に
悟りを開く事が出来ると、
 
 
「本当は自分(自我)はなんていないんだ」
 
 
という事が理解出来ます。
 
 
自分とは、「本当の自己」から「分かれる」と書きます。
 
 
元々、全ての人は「真我」だったのに、
この世に生まれて真我である事を忘れ、
自分(自我)が本当の自己であると錯覚しているのです。
 
 
でも、そうじゃなかった。
真我が本当の自己だったんだ、
そういう気付きを得られた段階が、
この「見牛」です。
 
 
「仏教は悟りを開くのが目的であり、
 ここが人生のゴールだ」という誤った考え
をする人もいますが(かつての僕です笑)、
ここはまだ「第三段階」です。
 
 
という事は、ゴールまであと7段階あり、
この見性は到底ゴールとは呼べないんですね。
(絵を見ると、まだ「牛の尻」しか見えてない笑)
 
ここに気付かないと、
「悟ったハズなのに、まだ人生が苦しいのはなぜなんだ」
という「ワナ」にはまってしまいます(かつての僕です笑)。
 
 
悟りというのは一回開けばいいものではなく、
「悟りを開き続けた状態」で日常生活を送る事が
人生の修行なのです。
 
 
なのに、悟りを一回開いただけで満足し、
自分はすごいんだ、偉いんだ、特別なんだ、
と驕ってしまうのは、真我とは程遠く、
自我がより肥大化してしまう事にもなります。
 
 
もっとも、その自我の肥大化も第十段階に至るには
必要なプロセスのような気がしています。
 
 
もし、悟ったのに苦しい、あるいは、
悟り後に自我が肥大化していると自覚があるのであれば、
ここはゴールではなく、まだプロセスの途中なんだ、
という事を理解する事が大切です。
 
 
そして、いつでも、どこでも、誰といても、
悟りを開いた状態を維持し続ける事、
これがこの後の段階の課題となってきます。
 
 
という事で、次回は第四段階「得牛」について
お話ししたいと思います。
 
 
では、最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:十牛図, 23:05
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十牛図(悟りのプロセス) −第二段階:見跡(けんせき)−

JUGEMテーマ:仏教

 

こんにちは、幸村一輝です。
 
 
今回は十牛図の第二段階「見跡」のお話しです。
 
      【十牛図 第二段階 −見跡−】

 

第一段階「尋牛」で人生に迷った牧人は、
とうとう「真理の足跡」を見つけます。
 
 
「真理の足跡」とは正法(しょうほう)の事で、
正しい教え、つまり、お釈迦様の教えの事です。
 
 
仏教にこだわらなければ、
「過去の偉人たちの教え」と言ってもいいでしょう。
 
  
「この教えに従えば、求めていた答えに辿り着けるかもしれない」
 
 
こういう期待がある状態が「見跡」です。
 
 
が、この「期待」が中々厄介でして、
足跡が期待どおりであればまだいいのですが、
そうでない場合、セミナージプシーとかになります(苦笑)
 
 
正法(=正しい教え)に辿り付けなければ、
延々と「答え」を求めてさまよい続ける事になるのです。
 
 
僕の経験から言えば、一発で答えに
辿り着くという事は、まずありません(笑)
 
 
この時期は、メンターと呼べる人と出会ったりもして、
「この人しかいない!」
「この人の教えに従っていれば間違いない!」
などと思ってがむしゃらに勉強したりするものです。
 
 
ところが。
 
 
自分が本当に求めていたものは、そこ(外側)にはありません。
 
 
だから、どんなに優れた人の下についても、
必ず離れる時が来ます。
 
 
答えは、自分の内側にしかないからです。
 
 
ですが――
 
 
どうも、人生というのは、あえて間違いというか、
遠回りをさせたがるのですね(笑)
 
 
こっちじゃない、こっちでもない、
あーでもないこーでもないと
消去法的に彷徨った結果、
 
 
「これだったんだ!」
 
 
という気付きを得たい。
これが人生の成長プロセスのようなのです。
 
 
しかし、この見跡の段階で一番大切なのは、
「真理を知りたい!」「悟りたい!」
という欲求なのです。
 
 
悟りというと、悟りたいという欲求がある限り
絶対に悟れないと言います。
 
 
それはそのとおりなのですが、物事には順番があります。
 
 
悟りたいという欲求がなければ、
悟りを知ろうとも、学ぼうともしません。
 
 
どんなに優れた人でも、学びたいという欲がない人間に
学ばせて、身に着けさせる事は不可能です。
 
 
馬を水飲み場まで連れていく事は出来ますが、
馬が水を飲むかどうかは、馬次第だという事です。
 
 
だから、悟りたいと思う事、これを発心といって
仏教では大切にされるのです。
 
 
僕も散々迷いましたが、この十牛図と出会ったお蔭で
人生が加速度的に変わって来ています。
 
 
正法(=正しい教え)に出会える事は
とても幸運で、安心をもたらしてくれます。
 
 
次回は、十牛図の第三段階「見牛」について
お話ししたいと思います。
 
 
では、最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:十牛図, 22:41
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十牛図(悟りのプロセス) −第一段階:尋牛(じんぎゅう)−

こんにちは、幸村一輝です。

今日は十牛図の一枚目、「尋牛(じんぎゅう)」のお話しをします。

 

 

       【十牛図 −第一段階:尋牛ー】
 

 


多くの人は人生に悩み、苦しみ、迷いながら生きています。
 
 
その悩み、苦しみ、迷いがもうどうしよもなくなった時、
人はこのように考えるものです。
 
 
「自分はなぜ生まれてきたのだろうか?」
 
「人生とは何だろうか?」
 
「自分にとっての本当の幸せとは?」
 
 
そして、その答えを見つける「旅」に出ます。
 
 
それは自分探しの旅だったり、
色んな人に話を聞いてみたり、
ネットサーフィンしてみたり笑
 
 
とにかく、そうやって、苦しみながら
自己探求している状態が「尋牛」です。
 
 
これは言い換えると、人生に苦しみや迷いがない時は
「尋牛」にはならない、つまり、
悟りのプロセスに入らない、という事です。
 
 
毎日楽しくて、悩みや問題が何にも無くて、
充実した人生に「悟り」が必要でしょうか?
 
 
……要りませんよね笑
 
 
悩み、苦しみ、葛藤し、もがいてもがいてもがいて、よぉ〜〜〜やく、
 
「抜け出せた!」
 
「終わった!」
 
「悟った!」
 
このような達成感や満足感を"味わいたくて"、
人(魂)はこの世に生まれて来ました。
 
 
もう、超ドMです苦笑
 
 
ですが、"味わいたくて"という事は、
「自らが望んでいる」という事でもあります。
 
 
自分が望んで苦しみに来てるんだから、
自分で何とかせにゃならんのです笑
 
 
この「自分で何とかする」という事を
自己責任とかアカウンタビリティとか
自分の人生を生きる、なんて言い方をします。
 
 
自分が望んで生まれて来た人生、
自分が主体的に責任を持って問題に取り組むという事。
 
 
まあ、そうはいっても。
 
 
現実的には他者の手を借りなければ
解決出来ない問題は腐る程あります苦笑
 
 
僕自身、対人恐怖症を克服するのに、
多くの人からご支援を頂きましたから。
 
 
だから、もし自分が「尋牛」の段階にいるなぁ、と感じたのなら、

主体的に問題に取り組む意識しつつも、

必要に応じて他者の手を借りる事も有りではないかと思います。
 
 
逆に、超自立的な人だと、「人の手を借りる」
というのが課題だったりしますけどね笑
 
 
そして、世の中の多くの人が
この「尋牛」の段階にいると感じています。
 
 
悩み、迷い、苦しんでいるのですよね。
 
 
そんな人達が心から安心し、笑顔でいられる世界の
お手伝いをしたいと、僕は思っています。
 
 
次回は、十牛図の「見跡」について
お話したいと思っています。
 
 
では、最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:十牛図, 09:25
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十牛図(悟りのプロセス) −概要−

JUGEMテーマ:仏教

 

こんにちは、幸村一輝です。
 
 
今日から十牛図という悟りのプロセスを書いた
仏教の絵画についてお話ししたいと思います。
 
 
まずは、十牛図の全体概要から。
 
 
十牛図は、悟りへ至るプロセスを
十枚の絵と詩で示したものです。
 
 
創案は中国宋時代の禅僧・廓庵禅師と言われています。
 
 
中味に入る前に、僕がなぜ、十牛図の話をするのかというと、
僕自身、この十牛図に救われたからです。
 
 
「自分は悟ったハズなのに、なぜまだこんなにも人生が苦しいのか」
 
 
そんな悩みを1年間抱えていました。
 
 
その1年間の悩みが、この十牛図で一気に
解決されたのです。
 
 
「もっと早く知っていれば・・・!」
 
 
そう思わずにはいられませんでした。
 
 
だって、数百年前の偉人が、
悩みに対する答えを出していたんですから笑
 
 
そんな経緯がありまして、同じように苦しんでいる人達に
少しでも手助けが出来るのなら…
 
 
そんな想いから十牛図の話をします。
 
 
十牛図の主人公(?)は、牧人と呼ばれる若者です。
 
 
その「牧人=自我」が「牛=本当の自分=真我」と出会い、
そして、成長していくプロセスが描かれているのです。
 
 
以下に、各段階についてざっくり説明します。
 
 
/匍蹇覆犬鵑ゅう)
牧人がいわゆる「自分探し」をしている段階。
「自分とは?」「幸せとは?」「人生とは?」
そんな風に迷っている段階です。
 
 
見跡(けんせき)
迷いに対する答え=足跡を見つけた段階。
ここでいう足跡とは「正法=正しい教え」の事で、
お釈迦様の教えの事です。
 
 
8牛(けんぎゅう)
迷って、教えに従った結果、とうとう牛を見つけた=悟った段階。
ちなみに、一度悟る事を一瞥とか見性と言います。
 
 
て正蹇覆箸ぎゅう)
一度悟る事が出来ても、悟り続ける事は難しい。
牧人が、牛=真我に至ろうと必死にもがいている状態。
 
 
ニ匍蹇覆椶ぎゅう)
必死にもがいた結果、何とか牛を飼いならした段階。
しかし、まだまだ本当の悟りには程遠い。
 
 
Φ概躓家(きぎゅうきか)
とうとう牛と一体化した段階。
牧人=自我はいつでも牛=真我と一体になれる状態です。
 
 
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)
あれほどこだわっていた牛を忘れる段階。
ここまで来ると、菩薩レベル。
 
 
┸裕俱忘(じんぎゅうぐぼう)
牛を忘れ、牧人である事も忘れ、
全てを忘れ、完全に空となった段階。
お釈迦様レベルの悟り。
 
 
返本還源(へんぽんかんげん)
悟りきった後、目に映るのは自然の姿。
純粋で、ありのままの世界。
一切の価値判断が無くなります。
 
 
入鄽垂手(にってんすいしゅ)
悟りきったら、そこで終わりではない。
今度は、他者に安らぎを与え、悟りへ導く段階。
 
 
以上が、十牛図の概要です。
 
 
次回から各段階の詳細について
お話ししていきたいと思います。
 
 
それでは、最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:十牛図, 22:07
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克己復礼 ――悟りを開き続けるという幻想――

JUGEMテーマ:仏教

こんにちは、幸村一輝です。
 
 
前回、悟りを開く事よりも、
悟りの状態を維持し続ける事の方が難しい、
という話をしました。
 
 
悟りの状態を維持する、というのは
心を平静に保ち続ける、という事です。
 
 
では、どうやって心を平静に保ち続けるのか。
 
 
結論から言えば、無理です(笑)

それは幻想に過ぎません。
 
 
どんなに禅をマスターしたような人でも、
心は乱れます。
 
 
これはつまり、平静を保ち続けるのではなく、
「心の平静が乱れる時間を極限まで短くする」
という事なのです。
 
 
例えば、雨の降っている朝、
自動車に水をはねられて
衣服が濡れたとします。
 
 
そうすると多くの人は、怒りを感じ、
その怒りを後々まで引きづります。
 
 
一方、悟りの修行を積んだ人は、
怒りを感じてもほんの一瞬で、
次の瞬間にはすぐに平静に戻っています。
 
 
これは怒りを否定するのではなく、
一瞬受け入れて、すぐに手放す。
 
 
そして、元のあるがままの状態に戻るのです。
 
 
心が乱れている状態があまりに短いから、
「心の平静が保たれている」ような錯覚を感じます。
 
 
が、実際にはどんなに修行を積んでも、
心は乱れるものなのです。
 
 
それはこの3次元世界で肉体を持っている限り、
無くならない事なのです。
(言い換えれば、これを体験したい為に生まれた来た)
 
 
この、心を平静に保つ事を孔子は
「克己復礼」と呼びました。
 
 
では、どうしたら一瞬で心の乱れを
平静に戻せるのか。
 
 
まずは、自分の心の状態に気付く事です。
 
 
怒っているのか、哀しんでいるのか、
楽しんでいるのか、苦しんでいるのか。
 
 
その心の状態に気付いたら、
次は呼吸に意識を向けます。
 
 
人は呼吸に意識を向けている時、
余計な思考や感情から切り離されます。
 
 
これを毎日、ひたすらにやり続けます。
 
 
そうすると、少しずつ心が乱れている状態が
短くなって行きます。
 
 
僕は数年間やり続けて、大分心の乱れる時間が
少なくなったと感じています。
 
 
それでもまだまだです(笑)
 
 
もっとも、生きている限り、一生続く修行ですから、
近頃では必死に悟ろう感がなくなりました。
 
 
悟ろうと思えばいつでも悟れる。
だけど、今は思考を使っていたい、
感情を味わっていたい。
 
 
僕はこんな感じで、とりあえず生きています(笑)

 

 

では、最後までお読み頂き、

ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:悟り, 21:51
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山の修行 vs 街の修行

こんにちは、幸村一輝です。

 

 

いやはや、久しぶりのブログ更新です(笑)
 
 
最後にブログ更新してから半年経ちまして、
その間、色々あり過ぎて、
以前と言っている事が変わっているかもしれませんが――
 
 
それは、しょうがない(笑)
 
 
この世は諸行無常、常に移り変わっていくものなのです。

(もうホント、マジで)
 
 
んで。
 
 
今回、お話ししたいのは「山の修行 vs 街の修行」です。
 
 
「悟り」という言葉を聞くと、
「山にこもって厳しい修行をする」
というようなイメージがありませんか?
 
 
僕はありました(笑)
 
 
ところが。
  
 
実は、お釈迦様は「山にこもって修行をせい」
なんて一言も言ってないんですよね。
 
 
むしろ、「街に出て修行しろ」と言っている。
 
 
これはどういう事かというと、
仮に山にこもって修行して、
悟りを開いたとします。
 
 
ところが、それは個人の満足に過ぎず、
発展性がありません。
 
 
「悟りを開いたの。すごいね。で?」って感じ(笑)
 
 
更に、悟りというのは、開いてもすぐに閉じてしまいます。
 
 
これは僕自身も日々感じているんですが、
もうね、ホント、すぐ閉じるんですよ(苦笑)
 
 
思考や感情が介在した瞬間、悟りは閉じます。
言い換えれば、思考や感情が介在してない状態が
悟りを開いている状態。
 
 
思考や感情は、イヤな人に会ったとか、
イヤな目に遭った等、外側の情報を主として、
偶発的に介在してきます。
 
 
つまり、コントロールが難しいのです。
 
 
静かな山の中であれば、思考や感情も
コントロールしやすいでしょう。
 
 
しかし、一歩街に出れば、
ありとあらゆる出来事に揉まれるワケです。
 
 
このありとあらゆる出来事の中で、
いかに悟りの状態を維持していられるか。
 
 
これが難しい。

山より街の方が断然難しい。
 
 
だから、お釈迦様は街で人間関係に揉まれて
修行しなさいと仰っているワケです。
 
 
時には、山にこもるのもいいと思います。
少なくとも、僕には必要な時間です。
 
 
先日、久しぶりに自然に触れたら
涙が出そうになりましたしね(笑)
 
 
まあ、それはともかく、山にこもってばかりではなく
街に出て、ありとあらゆる出来事を前にして
如何に平静を保っていられるかが
人生を通しての課題なのです。
 
 
では、どうやって平静を保ち続ければいいのか、
というお話しを次回にしたいと思います。
 
 
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

author:幸村一輝, category:悟り, 20:43
comments(0), -
だから日本は平和だった

JUGEMテーマ:つぶやき。

こんにちは、幸村一輝です。
 
 
日本という国は大変平和ですよね。
 
 
武力による国同士の争いは無いし、
国内でも武力による内紛はありません。
 
 
一方で、国同士が争っている場合や内紛が起きるのは、
民族や宗教が異なる事に起因する場合が
少なくありません。
 
 
けれども、日本もかつては宗教の違いによって
日本人同士が争っていた時代がありました。
 
 
では、いつから、どうして、
日本人は宗教による争いが無くなったのでしょうか。
 
 
結論から言えば、織田信長以前と、以後による違いです。
 
 
よく信長は「宗教を弾圧したヒドイ人だ」という評価されます。
 
 
比叡山焼き討ちや、長島一向一揆殲滅など、
僧侶や女子供を虐殺した残忍な人間だと。
 
 
事実、そうだとは思います。
 
 
しかし、現代に生きる我々はその恩恵を受けてもいるのです。
 
 
つまり、宗教による争いの無い、平和な時代を
謳歌している、という恩恵です。
 
 
信長以前は、僧侶が武装して戦争するのは
珍しくはありませんでした。
 
 
有名なのが比叡山と園城寺の争いや
天文法華の乱です。
 
 
お坊さん同士が殺し合うというのは
現代日本人からすれば信じられないかもしれませんが、
歴史を少し調べれば分かる事実です。
 
 
これらは宗派の違いによる争いですが
戦国時代には石山本願寺と信長の
宗教対大名の戦争もありました。
 
 
そして、この「宗教が武装して戦争をする」、
言い換えると「宗教勢力が政治に介入する」事を
止めさせたのが、信長です。
 
 
これは「平和の実現」という視点で見れば、
快挙とか偉業とかいう言葉では言い表せない成果です。
 
 
だから、僕が「平和だなぁ」と思う時は、
漏れなく「信長」が付いて来ます(笑)
 
 
実は歴史上の人物として、
信長が好きというワケではないんです。
 
 
ないのですが、物凄く尊敬しているのです。
 
 
それは、日本の平和を創った第一人者だからです。
 
 
これに続くのが徳川綱吉の「生類憐みの令」なんですが、
信長も綱吉も誤解されがちですよね。
 
 
信長はともかく、綱吉なんか「犬公方」ですから(苦笑)
 
 
だけれど、歴史という長いスパンで言えば、
綱吉が日本の平和に果たした役割は大きい。
 
 
生類というのは社会的弱者や動物類の事で、
憐れみというのは愛や優しさの事です。
 
 
つまり、弱者や動物に愛と優しさを持って
接しましょうよ、という事です。
 
 
こういう「令」が出たという事は、
実態は逆だった、という事です。
 
 
つまり、弱者や動物は虐げられる対象だった、と。
 
 
弱者や動物に優しくなんて、今では普通かもしれませんが、
昔はそうではなかった。
 
 
それを変えたのが、綱吉。
 
 
宗教による争いが無くなって、
人や動物に優しくなったら、
大分、平和に近づきますよね。
 
 
僕達の平和というのは、こうした先人達の
恩恵の上に成り立っているのです。
 
 
んで。
 
 
今日、昨日と土日でお休みだったワケですが、
僕はどこへ行かず、のんびり過ごしていました(笑)
 
 
そして、「平和だなぁ」と思いに浸っていたのです(笑)

 

 

本当は今すぐにでも動きたいんですが、

まだ行動すべき時ではないんですって(バイオリズム的に)。

 

 

急がば回れというか、待てば海路の日和ありというか。

 

 

まあ、準備期間だと思って

今を楽しむ事を大事にしています。

author:幸村一輝, category:雑感, 19:42
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